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1953年東京生まれ。ベース弾きの歌うたい。'67年、中2でバンドに足を突っ込む。リードギターの加藤君の兄貴がGSだったので機材を借りまくり、'68年12月には姉貴のダンスパーティーでデビュー。「THE RAVENS」という名前だった。(私はサイドギター)ドラムの植前君は1拍3拍でスネアを叩く世にもめずらしい秀才ドラマーであった。一番最初にやった曲はザ・ワイルドワンズの「夕陽と共に」。その後もゾンビーズ、ストーンズ、ヤードバーズ、トロッグス、スペンサー・デイビス・グループ、ゼム等イギリスのバンドの曲を次々にレパートリーに加えていった。もちろん、ザ・スパイダースも!ヴォーカルの清水君はハーモニカをマスターし、ベースの安藤君はヤマハのギターアンプにプラグ・インしていた。


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'69年植前君と安藤君がやめ、ベースに転向。'70年清水君が連れて来たのが同級生の今井君である。彼はのちに中島文明率いる「ダンガンブラザーズバンド」の初代ドラマーとなる。全員高校生になっていた。レパートリーもポール・バタフィールドブルースバンド、ジョンメイオール&ブルースブレイカーズ、テンイヤーズ・アフター、クリーム等の白人ブルースになっていく。渋谷や銀座のディスコに出演し始めたのもこの頃だ。成増のビアガーデンで「同じ曲ばかりやるな!」とクビになった。ブルースばかり演奏したので、みんな同じに聴こえたんだろう。'71年「FREE」来日、絶大な影響を受ける。オリジナルが出来てきた。


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名前を「神無月」として渋谷の「ジャンジャン」などに出演。加藤君の兄貴に借りていたフェンダージャズベースとモズライトのアンプを使っていた。そうこうするうちに、'72年6月、神田商会主催の「A ROCK」というコンテストに出ることになった。そしてゲストに「はっぴいえんど」を迎えたそのコンテストで僕らは優勝してしまったのだ!あれー?と思っているうちに12月にはもうレコーディング!!夢みたいだった!飛び上がって喜んだ。護国寺のキングレコード、8トラックから16トラックに変わったばかりだった。ベースの音は?とミキサーの千葉さんに聞かれ、「細野さんの様にして下さい」と言ってみた。まだなーーんにもわからなかったのだ。そしてその時レコーディングした「愛しているのかな」と「春がやってくると」がキングレコードのロンドンレーベル(ストーンズと同じにしてくれと頼んだ)から'73年、発売になった。19歳だった。チャーも同じ「POP SHOPレーベル」から「バッド・シーン」というバンドでデビューした。ベースはナルチョ!!この頃よく出演していたのが新宿にあった「ラ・セーヌ」という店で、それこそ色んなジャンルの人達が出演していた。宇崎さんの「ダウンタウン・ブギウギバンド」ともやったような気がするなあ。そうだ、フジTVの「リヴ・ヤング」にも出た!そうそう、'73年にはこんなコンサートもありました。

<ロックン・ロール1月場所>
1月28日 日本青年館 
出演:キャプテンヒロ&スペースバンド、キャロル、ジプシー・ブラッド、クリエイション、神無月、カルメン・マキ&OZ、ガロ、ファニー・カンパニー他

<第2回RSU音楽祭>
3月31日 埼玉会館大ホール
出演:クリエーション、RCサクセション、遠藤賢司、高田渡、VSOP、神無月、バッドシーン他

<オレンジ・ポップス・カーニバル>
4月14日 日比谷野音
出演:キャプテンヒロ&スペース・バンド、キャロル、神無月、ガロ、猫、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、ファニーカンパニー他

'73年5月、レコーディングを手伝ってくれたキーボードの岩崎君が参加、5人組となる。(彼はその後、矢沢永吉、浜田省吾、鈴木聖美など様々なミュージシャンをサポートする)何でこんなに覚えているかって?それは奇跡的に記録が残っていたからなのです!


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'74年、日本中のバンドが結集した伝説の郡山「ワン・ステップ・フェスティバル」に参加。延べ5日間のコンサートの初日トップ・バッターだった。読売新聞に写真が載ったっけ。

<'74年8月4日>
神無月/サンハウス /陳信輝グループ /イエロー /ウエスト・ロード・ブルースバンド/トランザム /クリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジ /沢田研二&井上堯之バンド


学園祭でシュガー・ベイブとカルメン・マキ&OZと共演。そのきらびやかさと音のでかさに圧倒された。
OZのギタリスト、春日のハチとは'69年ちょっとだけ一緒にやった事がある。同じように'70年、四人囃子のベーシストだった中村君とも合わせた事があるのだ。本人達は忘れてると思うけど。'75年、ギターの加藤君が抜け、続いてキーボードの岩崎君も脱退。これで神無月は終わりになった。シングル一枚残しただけだった。すぐギターに鈴木君を入れ、4人組「ハート・オブ・サタデイ・ナイト」として活動を始める。トム・ウエイツの曲名などとは露知らず、「ニューミュージック・マガジン」を見て、語感だけで名前を付けちまった。ムチャクチャPOPなバンドがやりたかった。それもライブ・バンドを!
そして、この頃から各地に出来始めたライブ・ハウスを回り始め、「寅さん人生」が始まった。


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頭脳警察のトシや当時「リバーサイド・ボーイズ」のタメこと中島文明、生田敬太郎といった人達と知り合ったのもこの頃だ。'75年から'76年にかけて、初めて京都の「サーカス&サーカス」「拾得」「磔磔」といったライブハウスに出演した。東京では三軒茶屋の交差点にあった「オデッセイ」という店がレギュラーだった。岡野ハジメの「スペースサーカス」「カシオペア」、小川銀次率いる「クロス・ウインド」等がよく出演していた。あとは渋谷の「屋根裏」!!(もちろん今のとは違ってセンター街にあった)
リハーサルは同じく渋谷の「BYG」の地下室で、(今は素敵なライブ・スペースになってる)全楽器をヒーコラと下ろしてやっていた。リハをやるまでに疲れ果ててたなあ。よくやるよ!
その後ギタリストが鈴木君の他に高橋誠(のち「もんた&ブラザーズ」に加入)→鳥居アキラと変わり、'77年に鈴木君がやめた後、最後のギタリストがのちに東芝でドリカムの担当ディレクターとなる高松君である。そしてその年、ヴォーカルの清水君がやめるに至り、「ハート・・」も解散した。最後のライブは'77年10月、下北沢「ロフト」、対バンは「紀ノ国屋バンド」(盛山キンタ/横沢龍太郎/清水信之/マック清水などがいた)。なんと司会がジョージ吾妻!僕は彼のバンド「ミッドナイト・クルーザー」の大ファンだったんだ!弟の光良となんと強力な兄弟!!
うーん、たしかヤング・ラスカルズの「グルーヴィン」を唄ったぞ、俺は!

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